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第12回 ジェネリーノキング インタビュー

「人と人を結びつける案内人」として様々な分野、才能、地域をつなぐコーディネーターの渡辺幸裕氏。大学客員教授として、また「料理ボランティアの会」など、活動は多方面。若き日、「お前は何をして日本に貢献するのか?」と問いかけた父の言葉がずっと心の中に。男子のコミュニケーション能力の低下が危惧される昨今、渡辺氏の若き日と学生を教える立場からお話を伺った。

profile

株式会社ギリー
代表 渡辺 幸裕(わたなべゆきひろ)氏
東京都出身。早稲田大学政経学部卒。佐治敬三と開高健、広告に憧れ、サントリー(株)入社。主に宣伝部などで26年間活躍。開高健のスペシャル番組を制作する幸運に恵まれ、最終回は追悼番組となった。TBSブリタニカ時代は月刊誌「ギリー(後にpenに誌名変更)」をプロデュース、創刊。
2001年(株)ギリー設立、日本一のコーディネーターを目指す。ビジネス・コーディネイトを通して文化、飲食、メディア、国際交流など様々な分野での活動を展開中。年間200回以上のイベントを企画し主宰するギリークラブは1600回以上実施。人と人を結びつける「生涯一案内人」を自任し、活動開始11年の「料理ボランティアの会」事務局長として各界トップ料理人達と被災地支援活動に力を入れる。文楽応援サイト「楽文楽」編集長。多摩大学経営情報学部客員教授。

「何をして日本に貢献するのか」
この問いがずっと自分の心の中にある。

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教養人の母と技術屋の父。
二人は仲良しだった。

松前)お母様、お父様はどのような方だったのでしょうか?

渡辺)母は僕が子どもの頃からコーラスをしたり、体操に行ったり、いろいろなことをしているカルチャーおばさんでしたね。PTAの俳句の会に入ったのをきっかけに中村汀女さんの門弟になったりしていました。とにかく本が大好きで、書くことが大好きで、死ぬまで俳句をして、漢詩の勉強のために父を置いて何回も中国へ行ったりしていました。

父は古河電工の研究所に勤める技術屋で、家にいるときはよく書斎にこもっていました。出張もよくありましたので、母と僕ら姉弟三人で過ごす時間が多かったですね。でも父と母はすごく仲が良かった。
父は子どもの頃患った小児まひのために左足が不自由でしたが、母は「私がこの人の左足になる!」と言って結婚したそうです(笑)。父親と母親の仲が良いと子どもが安心しますよね。それだけでも僕はのびのびと育ったと思います。

小5で東京に引っ越していじめに遭う。
学校を休ませて漢字の特訓をした母。

松前)子どもの頃のことで覚えているエピソードはありますか?

渡辺)物心ついたときには父の転勤先の栃木県の日光に住んでいました。山の中でしてね、夏になると毎日のように夕立が降って道がぬかるみまして。冬になると雪が降り、春は雪解けです。霜も降りる。一年のうち半分くらい長靴を履いていたというような子ども時代でした。

父の転勤のため小5で東京の区立の小学校へ転校してきたのですが、言葉の問題でいじめに遭いました。完璧な栃木弁でしたから。田舎の子としては勉強も出来て、いきなりトップクラスに入ったりしたことも嫌われる原因になったのかもしれません。
子どもは残酷ですからね、傷つきました。それを母がすごく心配して、私立中の受験をすることになったのです。でも漢字の書き取りができなくて一次で落ちてしまったのです。それで一週間学校を休まされまして、母から書き取りの特訓を受けて二次に受かったのです。すごいですよね、学校を休ませて特訓する母ってなかなかいないです。(笑)

「お前は何をして日本に貢献するのか?」
父のことばが忘れられない。

渡辺)僕が高校生の時、これからどの道に進もうかというときに、
「ユキヒロ、お前は何をして日本に貢献するんだ?」と父に聞かれましてね。そんなこと急に言われましても、それまで全く考えたこともなかったので、ええっ?!と、どぎまぎするばかりでした。(笑)
だけど、「何をして日本に貢献するのか」というこの問いは、その後ずっと、今でも僕の心に残っているのです。

松前)すごく大きな言葉ですね。スケールが違うといいますか。技術のお仕事をされていたのでそのような意識をお持ちだったのかもしれませんね。

渡辺)そうですね。その後、大学に入ってすぐ免許を取りまして、父の送り迎えをする約束で車を買ってもらったのです。父は足が不自由でしたからね。三日坊主で終わるんじゃないのかと周りから言われましたが、意地でも続けようと決意して卒業まで毎日送り迎えを続けました。そんな日々に父と車の中でいろいろな話ができたこともよかったと思います。
僕は今大学で教えているのですけど、学生に「今はわからないかもしれないけど、君は何をして日本、世界、人類に貢献するのかを考えて生きて行けよ」と言っているんですよ(笑)

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未来のために大学で講義する。

松前)渡辺さんの大学での授業構成プログラムを拝見しましたが、ほんとにすごいと思いました。ゲストの方々は現役の役人、企業経営者、ビジネスの現場で働く人たち、それから職人さんなど多彩で、学生がこんな授業を受けられる機会はなかなかないと思います。私も受けたいです。この人選を見ただけでもこれはやはり渡辺さんでなければできない授業だと思います。

渡辺)学生を「様々な世の中」に案内する授業をしていまして、知り合いの方たちに講義をお願いしているのですが、皆これからの未来を担う若者のためならと一肌脱いでくれます。準備をしっかりして話してくれます。他の大学の生徒も講義を聞きたいと言ってくれているようなので、いつか別の講座でやろうかなと思っています。

松前)素敵ですね! 中高生と親に向けての講義も、いつかぜひやっていただきたいです。

若い男子のコミュニケーション能力の低さ、表現力の乏しさ。
母たちの責任は大きい。

渡辺)大学で教えていて、特に男子のコミュニケーション能力の低さ、表現力の乏しさを危惧しています。元アナウンサーで表情アドバイザーの方に来ていただいてトレーニングをしてもらったこともあります。はっきりものを言うことが大事。そうじゃないと世の中に出て通用しない、ということを理解してもらいたいのです。
日本語は口の中でモゴモゴと言っても通じてしまう言語ですが、英語は口の中でモゴモゴ言っても通じない。今からしっかり話す癖をつけておきなさいと。でもモゴモゴは急になったわけじゃなくて、ずうっとモゴモゴで通じた環境の中にいたということなのであって、表現をしたいのに表現をさせなかった母親の責任はすごく大きいと思います。

松前)確かにそうですね。子どもが言う前に親が先に言ってしまう。こう言いたいんでしょう?こうしたいんでしょう? と先取りしてしまう。特に息子に対してそういうことはすごくあると思います。

渡辺)周りの子どもたちを見ていますと、今は男子が女子に呼び捨てにされている時代なんですね。男は成長が遅くてバカなことをやるので余計に同年代の女子に見下されている感じがします(笑)。女性が活躍している今の時代、強い女性に囲まれているからこそ、この状況の中で男の子をどう強く育てるのかということを賢いお母さんはよく考えて息子と付き合ってほしいなと強く思いますね。

松前)息子たちのお母さんたちとおつき合いしていると、高校生の子どもの宿題のことまでちゃんと把握している方がいて、お母さんたちの過干渉はものすごいなと思うことがあります。子どものためにと思って自分が一生懸命なのはわかりますが、ほどほどにしないといけませんよね。
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いつか自分が先に逝く。
広い視野をもって、
子どもが自分の力で生きて行けるように育てる。

渡辺)基本はこうだ、でもその先は自分でみつけなさい。そういう子どもに対する教育は大切ですね。今はネット社会で、親が知らないうちに何でも情報が入ってきてしまう時代です。だからこそ、物事にはいろいろな見方があるということも伝えてほしいですね。「日本の常識は世界の非常識」ということもあります。外国に行ったことのある人はいろいろなことに気付く。世界は日本をこういうふうに見ているのだ、と。エチケットとマナーのことなども親がちゃんと勉強して教えてあげてほしい。最低でも自分が嫌なことは人にはしない。厳しさと温かさをもって導いていってほしいですね。

松前)お母さんも勉強をしなくちゃいけないですね。

渡辺)いつかは自分が先に死んでゆくのです。お母さんにそこは考えてほしいですね。子どもが考える前にいつも先に答えを教えてしまうというはいけません。子どもがいつか親の手を離れて自分の力で歩けるように世の中へ送り出してほしい。自分でできることは自分でできる子に育てる。失敗してもいいよと。むしろ失敗で学ぶことの方が大きいですし。

なぜ失敗したかというとチャレンジしたから。
失敗で学ぶことは多い。

松前)ご自身でも失敗したことはいっぱいあるのですか?

渡辺)それはたくさんありますよ(笑)
26年間サントリーに勤めて、それから独立してから16年になりますけど、その全ての時代に、出会った人から、育てられ学んだということもすごくありますが、失敗したことから学んだことはすごく多いです。
でも、なぜ失敗したかというと、挑戦したからなのです。挑戦しなかったら失敗すらできないし、当たり前のことをやっていたら当たり前の結果しか出ないのではないかと。チャレンジングスピリットって言うのかな、それは美しいことだと思います。そして失敗したら反省点を克服して再チャレンジする、そこが大事ですよね。

松前)たくさんの人との出会い。失敗、再チャレンジ。そこから成長する。

渡辺)そうですね、僕は両親からやりたいことを自由にやらせてもらえたと思います。親の影響をたくさん受けているというのは自分でよくわかります。そして友達や先輩の影響も大きかった。社会に出てから失敗をたくさんしながら、たくさんの人の力を借りて今でも僕は日々育っていると思うのです。どんどん。おかげで「金持ち」にはなれませんが、大変な「人持ち」になれました(笑)

イレギュラーはつきもの。でもそこが面白い。

松前)週2回以上イベントをされているそうですが、これは大変な回数ですね。イレギュラーなこともいっぱいあって、疲れ果ててしまうというようなことはありませんか?

渡辺)いやあ、ありません(笑)。回数はちょっと多いかもしれませんが、でも好きなんです。仕事がエネルギーになる。イベントは生き物なのでいろいろなことが起きます。予定が変わってしまったり、天気が悪かったり、実にさまざまです。でも何かが起きたとき、それにどう対応するのかは楽しみですし、そこをいかにうまく乗り越えるのかが実力だと思っています。

松前)すごいですね。私もいつかそうなりたいです。

母の笑顔とブリザードフラワー。

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渡辺)父が亡くなった時もつらかったですけど、母が亡くなったときは本当に悲しかった。89歳でした。母親というのはやはり特別な存在です。亡くなる2年前に、僕がブリザードフラワーを習って作り、それを母にあげたんですよ。「まさか自分の息子から手作りのブリザードフラワーを贈られるとは思わなかった」と言って喜んでいました(笑)。今も実家に飾ってあるのですよ。亡くなる数日前には一緒に文楽を観て、レストランで食事ができたことはよかったなと思いますが、もっともっと親孝行をしてあげればよかったと後悔ばかりが残ります。

でも思い出すのはやはり母の笑顔ですね。女性は子育てでいろいろな大変なこともありますが、やはり笑顔がなくちゃね。笑顔を忘れないでいるといつかかわいいおばあちゃんになれますね。男もね、嫌なジジイになるよりも好好爺になれと言いたい。「青年は好好爺をめざす」。いいタイトルでしょ(笑)。それは急にはなれないのですね。小さい頃からいくつものステップを踏んで生きて行くということなのだなと思います。 (敬称略)

 


松前後記:
渡辺さんと、初めてお会いしたのは、渡辺さん代表ギリークラブと広瀬香美さんコラボ主催の「エビベジの会」でした。エビベジを作っている海老原ファームのお野菜を一流シェフがお料理して食する会です。その時からずっと、私の中では日本一「ジェントルマン」という言葉が似合う方。それが渡辺さんです。
サントリーの宣伝部で沢山の社会経験を積まれ、その良質な人脈の広さ、知見の大きさに、本当に尊敬してしまいます。奥様との二人三脚で歩んでいらしたのも素敵。
いつもワクワク感のあるお仕事をされていらっしゃいます。
そんな渡辺さんのご両親は、お話伺ってみて、やっぱり素敵な方々でした。

撮影協力/第一園芸 帝国ホテルプラザ店
聞き手/松前博恵 (文:坂 真智子  写真:栗原美穂)