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takashima_top_0101第6回 ジェネリーノキング インタビュー

政令指定都市である福岡市は、人口約153万を擁する九州最大の都市である。
その福岡市を率いるのが、2010年11月に史上最年少の36歳で初当選し、昨年11月、史上最多得票で再選を果たした高島宗一郎市長だ。

ジェネリーノキング編集部が注目したのは、従来通りの市政運営ではなく、その若い感性を生かした新しい「福岡市」の改革に取り組んでいることである。
例えば、徹底した情報公開とブログやSNS、YouTubeを使った情報発信。
地下鉄全駅や空港をはじめ福岡市の主要観光スポットへの無料Wi-Fiの整備。
「スタートアップ都市・ふくおか宣言」以降の国家戦略特区の獲得をはじめとした様々なスタートアップ支援の実施。
2015年4月に東京のお台場で開催された世界最大級のスタートアップイベント「SLUSH ASIA」では唯一政治家として登壇し、ベンチャーと政治の連携を訴えた。

企業でも政治でも、伝統があればあるほど「革新的」に取り組むことには反発が起こりやすい。
しかし変えていかなければ、日本は世界から立ち後れてしまう。
改革を推進するその強靭な精神力。そして時代を創ると決めた、その強い意志。

我が息子が、将来こんな男性になって日本を支える原動力になってくれたら・・・
そんなご両親のために、高島市長へ子どもの頃、どんな子どもだったのか?市長になったきっかけは?などを質問してみた。

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福岡県福岡市長 高島 宗一郎
高島 宗一郎(たかしま そういちろう)プロフィール
「福岡市をアジアのリーダー都市へ!」をスローガンに、その活躍ぶりは、国内はもちろん、海外からも注目をされている。
世界中の市長から最も優れた市長を選出するWorld Mayor 2014にノミネートされた実績を持つ高島市長は、クールジャパン戦略推進会議有識者メンバーや、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問、スタートアップ都市推進協議会会長など、日本全体をけん引する重要な役職も任されている。
 

自由と愛情に恵まれた子ども時代

 

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松前)高島市長は、子ども時代はどんなお子様でしたか?

高島市長)一言で言うと、愛情たっぷりにスクスクと育った子どもです(笑)。一人っ子で、初孫でもあり、近くに親戚が多く住んでいたこともあって、愛情には非常に恵まれていました。特に祖父母や曾祖父母は、いつも褒めてくれて、可愛がってくれていたことばかりが思い出されます。
悪い事をしようにも、祖父母や両親、親戚の顔が浮かんでしまい、自分のことを大切にしてくれている人たちを悲しませたくないという気持ちになって、結局、大した反抗期もなかったように思います。
また、母親からも勉強しなさいとか、これはダメとか、小学生まではガミガミ言われていたんですが、中学生になると一転して大人として接してくれて、徹底的に自由にさせてくれるようになりました。

松前)お母様との具体的な思い出はありますか?

高島市長)
中学校では喫煙の問題がよくあると思うのですが、中学生の時、誰かが喫煙した時に家庭に向けて注意するためのプリントが配られたんですね。ところが、持って帰って母に見せても、全然気に懸けない。「タバコを吸ってないか、聞かなくていいの」と言った時に、母が、「タバコを吸ってみたら。ハイ。」とタバコを私に差し出したんです。
母はもちろん私が煙を嫌いなことを分かった上でしたのだと思います。でも「ダメ」と言われると反抗したくなる年頃に、母が「私はあなたのことを信じているし、大丈夫」という感じだったので、反抗するポーズを取る必要も無かったですね。
こんな母に育てられたおかげで、自立心が強くなったと思います。まあ、反対にアナウンサーだった父は、忙しくて接する時間が少なかったためか、私をずっと子ども扱いしていたように記憶しています…。(笑)

プロレスへの興味が、中東問題へと目を向けるきっかけに

松前)少年時代は部活など、何かに熱中されていましたか?

高島市長)小さい頃からずっとプロレスが好きでしたね。それがきっかけとなって、高校1年生の時に「たったひとりの闘争」というアントニオ猪木さんの本と出会いました。その本には当時、参議院議員を務めていた猪木さんが、イラクに人質となっていた日本人を救出しに行って、実際に解放を実現したことが書かれていたのですが、とても衝撃を受けましたね。ちょうど湾岸戦争の最中で、様々な報道がされていましたけれども、「アメリカが正義で、イラクが悪」のようなステレオタイプな報道の内容と、この本に書かれていることが全然違ったんです。
どうして、こんなに違うのか、興味を持って自分なりに勉強をしていた時に、父親が、政治や中東情勢、経済に関する本を色々買ってくれました。それを無我夢中で読んでいましたね。

松前)お父様が息子の為に。素敵ですね。

高島市長)そうですね。子ども扱いをしてうるさい父ではありましたが、家で時事問題についてはよく話してくれていましたし、自発的に興味が湧いていたあの時期に、父がそれに関する沢山の本を買ってきて、関心を高めてくれていなかったら、今の自分はないかもしれません。

松前)学校の先生から何か影響を受けたことはありますか?

高島市長)高校1年生の時の担任の先生が、「高島、パレスチナ問題について、授業をしてみろ」と言ってくれて、ロングホームルームの時間を自分に任せてくれたことがあるんです。「世界一パレスチナ問題が分かる授業」という感じでやったのですが、友人たちからも好評で嬉しかったですね。
自分が興味を持った時に、父と担任の先生が、時を逃さず、場をつくってくれて、後押しをしてくれたおかげで、自分に自信を持つことができたんだなと、振り返って今はそう思っています。

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大学時代に決意した政治家への道

松前)実際、中東には行かれたのですか?

高島市長)はい。高校3年間、ずっと中東問題について勉強を続けるうちに、中東を訪れて自分の目で確かめてみたいと考えるようになりました。
大学に進学した後に、日本中東学生会議というサークルを立ち上げて、外務省などとも連携しながらエジプトやイスラエル、パレスチナで、日本の学生と現地の学生がディスカッションを行う機会を設ける活動などをしていました。
正直、中東の国々は、戦争のイメージが強く、何となく怖いイメージを持っていたのですが、現地の人たちと接してみると、驚くほど皆さん温かく、親切でしたし、親日家も多く、日本人であるということは、それだけで守られ、尊敬されているんだということを強く感じました。

パレスチナの人たちには、国籍がありません。そんな「国を持たない」人達に出会い、自分が置かれている環境のありがたさを感じるとともに、いつか生まれ育った日本という国、故郷を守りたい。そのために将来は政治の道に進みたいと考えるようになり、大学3年生の時には、政治家になることを明確に志すようになっていましたね。実は母方の祖父が市長を四期務めていたので、小さい頃から祖父の背中を見て育ちました。それが自分自身の体験と合致する中で自分の使命がより明確になった気がしました。

「福岡の朝の顔」を経て福岡市長へ

大学卒業後は、まずアナウンサーになることを目指しました。学生時代の経験からも、色々な現場を見て報道することは、とてもやり甲斐のある仕事だと考えましたし、父もアナウンサーだったことから、自分の中でイメージしやすい職業でもあったんです。そしてもう一つ大きな理由は、将来政治家を目指すにあたって、アナウンサーとして知名度を獲得したかったということです。選挙に強くないとせっかく政治家になった後に政策よりも選挙のための活動に時間が取られてしまうと聞いていたからです。

しかし、バブル崩壊後の就職難の時期でしたし、アナウンサーになるための勉強は全くしていませんでしたので、とにかく面接では「誰よりも一番詳しい中東問題」について熱く語りましたね。それが功を奏したのか、無事に福岡の放送局にアナウンサーとして就職することができました。実は、アナウンサーだった父親は、息子の突然のアナウンサー受験に大反対だったんですが、アナウンサーになれたことを一番喜んでくれたのも父でした。(笑)
毎朝、情報番組のキャスターとして、様々な情報を「分かりやすく」皆さんにお伝えすることに力を注いでいましたし、ご縁があって、憧れのプロレスの実況に携わることができ、猪木さんにも直接お礼を伝える機会にも恵まれました。イラク戦争の時にはキャスターとして報道を任せてもらったり、一つずつ夢をかなえながら、楽しく仕事に打ち込む日々が続きました。

そういう充実した毎日を過ごしていた時に、自民党の先生から「福岡市の市長選挙に出て欲しい」という打診をいただいたんです。
その時の気持ちは「時がきた」という感じでしたね。市長選に挑戦をすることを決心し、福岡市長としては最年少の36歳で当選を果たすことができました。

アナウンサーを辞めて、市長選挙にチャレンジをしたり、大学時代には危険と思われているような外国に行ったりというようなリスクを取ることができたのは、戻る場所がある、どんなことがあっても信じてくれる家族がいるという環境が、勇気を与えてくれたのだと思っています。

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引き継いだバトンを“順位を上げて”次世代へ。それが自分の使命

松前)高島市長にとって、ご家族の影響はとても強いのですね。
どんな時でも必ず信じているよ。と温かく見守ってくれるお母様、そして、その気になったときに、背中を押して、きっかけをつくってくれたお父様や担任の先生、褒めて自信をつけてくれた祖父母。そして、憧れの人であり、大きな影響を受けたアントニオ猪木さん。
何事にも負けない強靭なパワーの源が理解できます。
最後に、これからの目標をお聞かせください。

高島市長)福岡市を、「人と環境と都市活力の調和がとれたアジアのリーダー都市」にしたいと思っています。雇用があって、ビジネスが活発でありながら、人や地域の絆があって、自然も豊かで都市機能も充実していて、これまでに無い価値観を創り出すために、どの都市も挑んだことのない最初の1歩を果敢に踏み出していく。そんな世界の人々が住みたいと思うような、また、世界から尊敬されるような都市のことです。

ただ、恐らくこの都市像は、私一代では実現することはできません。私は、第35、36代の市長なんですが、これまでの市長の皆さん、市民の皆さんが築きあげてきたからこそ、今の福岡市があるわけです。そして、福岡市の歴史はこれからも続いていきます。リレーでたとえれば、私は、先代からバトンを引き継いで、今、全力で走っているところです。そのバトンを、次の世代に、少しでも福岡市を良くして、順位を上げてから渡すということが私ができる唯一のことだと思っています。

政治家である以上、4年毎の市民の審判を避けることはできませんが、自分がバトンを託されている間は、全てを懸けて、目標とする都市像に少しでも近づけてから次の人にバトンを渡す。そういう信念を持って、これからも様々なことに全力でチャレンジをしていきます。

 


松前コメント:
多くのメディアで、高島市長のご活躍を拝見してきました。メディアの高島市長は「テンポ良く早口で明るく若い」というイメージでしたが、実際にお会いしてビックリしたのは、「会話や服装もセンスがよく、パリッとしていて、ゆっくりと思慮深くお話される、落ち着いた大人の男性」 この言葉がピッタリ。本当に素敵な方でした。 私は、市長室に来られた時のオーラと魅力にすっかり緊張して、録音のボタンを押し忘れてしまいました・・・・(汗) 福岡市役所の活気に満ちた雰囲気も、印象的でした。
高島市長とお話しして感じた、未来の男の子達に何を伝えたいか?それは、「徹底的に自分が得意とするところを持て!」です。
子どものポテンシャルを応援し、興味を持つことには親がそっと後押しをしてあげるくらいの度量が必要ですね。

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文・松前博恵     カメラマン・山下 真一郎