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king02 第2回 ジェネリーノキング インタビュー

全国に1300加盟店の格安レンタカー「ニコニコレンタカー」初代社長のKINGな男!
美術大学出身で、右脳左脳を使い分け、自由な天才さを感じる「坂見鹿郎」さんインタビュー

株式会社 サンオータス
営業本部 本部長 坂見鹿郎氏

坂見鹿郎(さかみろくろう)氏 プロフィール
1960年東京生まれ。武蔵野美術大学卒業。㈱丹青社を経て、その後MIC、Jウォルター・トンプソン、DDBジャパン、ジョーンズラングラサール、三菱倉庫関連会社にてマーケティング、コンサルタントとして活動。2009年より格安レンタカーのニコニコレンタカーを運営する(株)レンタス社長。2014年より現職。

父は売れない小説家。家計は母が支えていた。
男としての理想論というものを強く持ち、現実の部分で母親が支えているという、そういう家でしたね。

松)坂見さんはどんなご家庭に育ったのでしょうか。

坂)父は売れない小説家でした。父の収入だけでは生活が厳しかったので、物心ついた時から母は小さな会社で総務の仕事をして、僕たち兄妹3人をしっかり育ててきたんですね。だから長男としていつも思っていたのは、決して家は裕福じゃないということと、長男としてしっかりしなきゃいけないということでしたね。

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父は非常に正義感に強くまた、人情に厚い人間でしたから、父によく言われていたのは「人の道を外れちゃいけない」とか「喧嘩は負けちゃいけない」とか。かなり男らしくというか(笑)。男としての理想論というものを掲げて、一方では本を書いて。それを現実の部分で母親が支えているという、そういう家でしたね。

家族を大事にしてくれた父。二十歳の誕生日に銀座の高級クラブへ連れて行かれた時はびっくりしました(笑)

ただ、生活の苦しさとか大変さっていうのは、両親は一度たりとも見せたことはないです。

うちの父は戦争孤児なんですよ。物心ついた時はもう回りに誰もいなかった。戸籍も無かった。ですので母方の坂見姓に同居人という形で入ったんです。家族が誰もいなかったので逆にものすごく僕たちを大事にしてくれました。年に一度は必ず家族全員を熱海とか日光とかに連れて行ってくれたり。母に叱られた僕を外に連れ出して、肩車して慰めてくれたり。そんなことを覚えています。二十歳の誕生日に銀座の高級クラブへ連れて行かれた時はびっくりしましたが、父なりの男としてのケジメのお祝いだったと思います(笑)

松) お父さんの考えなどが自分の中にあると感じますか?

坂)それはあります。男としての考え方だとか生き方だとか、立ち居振る舞いみたいなものは父親の背中を見て学んできたところはありますよね。父は60歳くらいまで物を書いてその後は死んでしまったんですが、最後まで自らのやりたい小説家を貫きましたね。

母は70歳を超えた今も、人のために働き続ける。

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そして最後まで母はそれを支えていた、っていう感じですね。父が死んで20年になりますけれども、母は会社の総務課を56歳まで真面目に働き、そこを早期退職して退職金を多少多めにいただいて。その後JR新幹線の清掃員に採用していただいて。朝は4時に起きて6時から午後3時まで。定年の63歳まで勤めました。その次はビル清掃会社に早朝清掃員として雇っていただいて、70歳まで仕事をして。そして今はボランティアをしています。老人の所に行って一緒にご飯を食べたりとか食べる補助をしたりとか。体を動かしてないとダメみたいで。

松) まさに働く女性ですね。
お母様との思い出など、すごく覚えていることはありますか?

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坂)中学の時、不良の端っこを経験していた時に、僕のことを気に入らない先輩が家の近くにやって来て、呼び出されましてね。3人ぐらいに囲まれてボコボコにされたことがあったんです。それを母がたまたまベランダから見かけたらしく、僕が家に帰って行ったら「あんなの喧嘩じゃない。3対1なんてありえない。これから学校へ行こう」と。僕の手を引いて、先生にその生徒を呼べ、と。「1対1でこの場でケンカさせろ」って言ったのは記憶にありますね(笑)

「これからはマーケティングの時代だから図面はもう止めて、お前はこれから言葉と企画書でデザインをしろ」!と上司に言われたんです

松) ご自身のお仕事のことをお聞かせください。

坂)僕は武蔵野美術大学の建築科を卒業しました。そして丹青社という会社にデザイナーとして入ったんですね。バブルの頃です。

丹青社では設計者として2年やってきたわけですけれども、ある先輩上司に「これからはマーケティングの時代だから図面はもう止めて、お前はこれから言葉と企画書でデザインをしろ」と言われましてね。丹青社が青山ベルコモンズに新しいセクションを作りまして、僕もそちらへ行くことになったんです。そこで受付嬢をしていたのが女房なんですけども(笑)。

松)うふふ。そうでしたか。
そしてそこからマーケティングのお仕事をされて行かれるわけですね。
商業施設の企画や立ち上げ、広告などいろいろな会社でお仕事をなさっているんですね。

坂)ひとことで言うと「つながりの縁での仕事」の人生ですね。その後もいくつも転職をしましたが、全て、誰かの知り合いの紹介や仕事の延長線上で、たまたま繋がりがあってそこへ行っているという、そういう人生ですね。仕事の先輩とか仕事で知り合った人たちと、プライベートでも仕事でもずっと繋がっているんですよね。

松)繋がりのある方たちが新規事業を始めるときに、パッと坂見さんを思い浮かべるんですね。あいつは今どこにいるんだ、みたいな。

坂)みたいですね。ありがたいです。何ででしょうね。それまで外資系の会社が多かったので、三菱倉庫関連会社に勤めた時は「今までいろいろあったけど、三菱倉庫関連会社では退職金も出してくれるだろうから、俺の人生もやっと一段落かなあ」なんて女房と話をしていたんです。

「お前しかいない!」と説得されて新事業を立ち上げる
これが、格安レンタカー「ニコニコレンタカー」の始まりです。

そこへ、以前勤めていた会社の社長に新事業の相談を受けましてね。この事業は非常に高い収益性を出せて上手く行きそうだと。良いテストマーケティングの結果も出たと言うんです。「よかったじゃないですか、先が見えて」って言ったら、「ブランドマーケティングと、リテールマーケティングと、フランチャイズビジネス、PR、リテールサービス。これが全部できるのは、俺が知ってる中ではお前しかいない!」と言われましてね。これが格安レンタカー、ニコニコレンタカーの始まりです。

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説得を受けて合弁会社を作り、その会社の代表となり(株)レンタスをスタートした。でも女房に、また、転職し、しかも、リスクの高い社長になったとはなかなか言い出せませんでした。この時48歳です。「なんか、給料の振込が違うんだけど」と言われて「出向したんだ」とかわけのわからないことを言って(笑)。格安レンタカーのPR活動で何度かテレビに出て、とうとう白状しました。その時はもうバレてたみたいですけど。

ニコニコレンタカーを退任。そして再び転機がやってきた

事業は順調に行って(全国に加盟店が1300店舗)店舗数も拡大し、ていたんですが、僕は大学時代に一度脳内出血で倒れたことがあるんですけど、2年前にまた倒れてしまって。今度は別の場所で、微量の脳内出血でした。

それからは、会社の業務が安定して、新しいチャレンジが減ったり、また、会社が僕の体のことを思ってくれたこともあるんでしょう、もう余計なことをしなくていいよって言ってくれるんですよ。それで少しばかり業務に飽きてしまって。一つ事業を形にもしたし、潮時かなと思って退任したんです。

そしたらたまたまこちらのサンオータスと縁がありまして、昨年からこちらで働いています。同じ車関連ですし、大好きな自転車でも通える距離ですし。私は、いつも、新しいことにチャレンジし、動き回っていないと気が済まないたちなんでしょうね。回遊魚の様に。(笑)

結果を残したいという執着心。マーケティングをキチンとする。人と人とのつながりを大事にする。

松)成功した要因は何だと思われますか?

坂)いやあ。成功したなんて内容じゃないから。

よくわかりませんが、一つは何か結果を残したいと思う執着心でしょうか。それからその執着心のベースにはマーケティングというものが常にあったんですよね。マーケティングは執着心を実現させていくための方法論です。目標を達成していくために、いかにしてその方法を組み合わせていくかを考えていくのが好きなんでしょうね。純粋に売上を上げていく仕組みを作って、それが結果として現れてくるのを見るのはすごく楽しいですよね。現場がどう反応するか、どういう思いでオペレーションするか、そしてどういう数値に跳ね返ってくるかというのを見ながらマネージメントする。利益が上がって結果が出ると、一生懸命汗をかいて働いている現場の連中の喜ぶ顔も見られるんです。夢と理想に『ブリッジ』を架けることが、マーケティングであるとすれば、夢を追った父と現実に生きている母との間に生まれたDNAがなせることなのかもしれません。

「これを買う人たちの気持ちを想像してごらんなさい」

アルバイト先で言われたひとことが、今も仕事に役立っている。

浪人の時と大学の時に、百貨店のオルゴール売り場でアルバイトしたんですよ。ちょうど僕らが学生時代70年代後半から80年代前半くらいまでは、どこの百貨店にも必ずオルゴール売り場があったんですね。僕は百貨店の派遣社員として働いている方の休暇要員として、週に何日か新宿伊勢丹や小田急、日本橋三越とかいくつかの百貨店へ行って、オルゴールを売っていたんです。

ある時、ある百貨店のトレーナーの人から「あなたはね、非常につまらなそうに仕事をしているね」と言われたんですよ。

「たかが売っているものは千円、2千円のオルゴールだとしても、これを買う人たちの気持ちを想像してごらんなさい。そしてその人たちが千円2千円であっても、ここで買って本当によかったって喜んで帰れる、そういうことをあなた自身が考えてごらんなさい。それがもしできれば、あなたはどこに行ってもやっていけます!」

本当に教えられましたね。すごいでしょ。今思い出しても涙が出ちゃいます。

 

松)すごいお話ですね。こういうお話をお母様たちにぜひ聞かせてあげたいです。学びの場ですね。バイトは大事ですよね。

坂)子どもを個として信頼する。やりたいことをサポートする。

そして相談して来たときは、きちっと誠心誠意相談に乗ってあげるということだと思うんですよね

松)坂見さんのお子さんはお嬢様お二人でしたね。

坂)上の娘は去年社会人になりましてIT関連の会社に勤めています。下の娘は二十歳になりまして宝塚歌劇団にいます。

松)タカラジェンヌですか!
ご自身も子育てを経験されて、子育てで大事だなと思うことはありますか?

坂)いくつかあると思いますが、子供たちが成長するに従ってきちっと個として認めて接してあげてほしいなと思いますね。それが子どもたちを成長させる大きな礎みたいなものになってくるんじゃないかと思います。それは裏を返せば信頼してあげるということ。そして、子供たちがやりたいと思うことは親としてできるだけサポートしてあげる。結果がどうあったとしても。途中で止めることになったとしても、それはそれで結果ですから。だから親は多分、子どもたちを信頼して後押しをして、優しく見守って、あとは彼らや彼女たちのしたいことのフィールドのお手伝いをする。そして何か言ってきたら、きちっと誠心誠意相談に乗ってあげるということだと思うんですよね。相談っていう部分だけは絶対中途半端にやらないことですよね。

感動の体験をする。大人と接する。

松)うちの息子は高校1年生ですけど、何がしたいのか全くわからないみたいで。それに対してちょっと焦りもあるみたいです。お嬢さんはお二人ともやりたいことが見つかったのは早かったですか?

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坂)下の子は早かったです。妻の実家が神戸で、小学校4年の時に宝塚を見に行ったんです。上の子は、いいねって言って終わったんですけども、下の子はすごく目をキラキラさせて。私はタカラジェンヌになりたいって言い出しまして。その思い込みだけは天才的ですね。本当になっちゃったんですから大したものだと思います。自分が感動するもの、感激するものに触れさせてあげるというのも大事でしょうね。

上の子はいろいろと悩みながら、ある種長女としてのプレッシャーを感じながら、いい子ちゃんでいなきゃいけないみたいな部分もあったんですが、自分なりに考え、また、信頼できる回りの大人の人達にも相談して就職先を決めた様です。

 

松)大人に会わせてあげるということも大事ですね。親だけの力ではないですよね。

坂)そうですね。回りの友達とだけ生きててもだめだし。

松)奥様の役割はどうですか?

坂)僕があまり厳しいことを言わないので、逆に妻は厳しいことを言う人間ですよね。厳しいこと細かいことを言うのが妻の役割で、まあ僕は僕の父親がそうだったように、男として言うべきこと考えていることを、大人の視点で伝えてあげるっていうこととをしましたね。もしおかしい事をしたらきちっと叱る。それ以外はもうお父さんは甘甘ですから。

仕事の幅と範囲を限定してしまう平均点の若者。
人生の先輩と腹を割って話す機会を持って欲しい。

松) 最近の若い子達を見てどう思いますか?

坂)自分自身の幅と範囲とを自分自身で限定してしまっているような気がしてならないですね。僕の仕事はここです。こっちはわかりません。もっとはみ出せばいいのに、もっと余分なこともやりたいって言えばいいのにと思うのですが、その範囲で収まってしまおう、その範囲の中だけで80点取れればそれでいいっていう、そういう指向性の子が多い気がしますね。

松)それはどうしたらよいのでしょうか。そうじゃない子もいるんでしょうけど、大体平均点になってきてますよね。

坂)そうなんですよ。で、それを叱ると泣いてしまう子もいますし、難しいですね。多分ですけども、いろいろなことを経験した人達、大人と腹を割って話をしたりする時間が必要なんじゃないかなっていう気がするんですよね。特に若い人達と先輩や上司との関係とか。

それからもう一つは、多分女性にも言えると思いますが、精神の状態や体調の状態がすべてが80点の状態じゃないと物事ができない、と思っている人が多いですね。そんなこと言ってたら仕事はできません。気分の波とか感情の波で仕事や物事を考えるな、と言いたいです。気分なんて関係なく、それでも一歩ずつ進んでゆく勇気と、ひとつずつやって行く責任というものを考えてくださいって言いたいですね。

日々小さなマーケティングアイディアを子供のように考えて、生涯現役でいたい。

松)この先いつか定年退職をして、次に何かしたいことはありますか?

坂)働ける間はとにかく働いていたいですね。引退ということはせず、給料が安いとか高いとか関係なく一生現役で何かをやっていきたいと思います。日々小さなマーケティングアイディアを子供のように考えて、それをイタズラのように実験してやっていけるような環境にずっと身を置いて行ければいいですね。大きいビジネスであろうと小さいビジネスであろうと関係なく。もしそれができなくても、何かの形で体を動かしていければいいかなあと思います。

 


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聞き手/松前博恵(文章/坂 真智子)