home > 崎田恭平

sachet
第13回 ジェネリーノキング インタビュー

今回のジェネリーノキングは、人口約5万人の町で、鵜戸神宮、飫肥城下町、広島東洋カープ・埼玉西武ライオンズ・日本プロサッカーリーグのキャンプ地で、サーフィンでも有名な宮崎県日南市の﨑田恭平市長です。

yamashita300_04

宮崎県日南市市長
崎田 恭平(さきた きょうへい)
地元を愛し、地元の方々に愛され続けている若きリーダーは、33歳の時に日南市の市長となりました。民間企業との積極的なコラボレーションを推進し、「日本一組みやすい自治体」「日本の前例は日南が創る」とキャッチコピーを掲げ、ベンチャー企業並みのフットワークの軽さを売りに事業展開を行っています。若さ溢れる柔軟な政策展開は、今までにはなかった新たな切り口の「地方創生」として注目を集め始めています。

大自然の中で育った少年時代

 

崎田市長は小さい頃はどんなお子さんでしたか?

私の父はJAに、母は駅の売店に勤めていて、いわゆるサラリーマン家庭ですが兼業農家でもありました。私は男三人兄弟の長男です。
両親の性格としては、父はどちらかというと事務局として後ろを守るタイプで、母も控えめな人で、自分からどんどん前に出る感じの人ではありません。
本当に普通のよくある家庭でありまして、愛情を持って育ててもらいました。

両親が共働きで留守にすることが多かったため、一緒に住んでいた祖母が私たち兄弟の面倒を見てくれました。兄弟とは、山村の中にある実家の周辺でたくさん遊んで、人並みに兄弟ゲンカもし、それを祖母は見守り、深い愛情で育ててくれました。

その他、祖母との思い出は、読み書きなど、祖母なりの教え方で興味をもたせてくれたこと。田植えや稲刈り、みかんの収穫などをする祖母を手伝ったのも良い思い出です。

大学時代は祖母と手紙のやり取りもしていました。本当に深い愛情で育ててくれたなあって感謝しています。あっ、今でも健在ですよ(笑)。
祖母や両親からもらった大きな愛情が自信につながって、今でも気負いすることなく誰とでもお付き合いできるんだと思います。

小学校は、当時全校生徒が60人くらいの小さな学校に通っていました。今思うと、10人ほどのクラスに担任の先生が1人ついてくださり、恵まれていたとも言えると思います。手厚い指導を受けることができていたので、田舎ですが国公立大学に同級生の4人が進学しました。全員が良い友達で、自然環境やその他のことも含めて環境に恵まれたと思います。

登下校中は、近所のおじちゃんやおばちゃんが挨拶してくれたり話しかけてくれていました。地域で子どもを見守る田舎の環境で生まれ育ったのも今の自分に大きな影響を及ぼしています。

緑の多い田舎なので、実家の周りは360度見渡しても障害物は電柱くらい。夜は街灯もないので真っ暗なので星が綺麗に見えるんですよ。

今もご実家の周りは変わらないんですか?

はい。変わらないですね(笑)。
中学校は小学校の時より人数がかなり多い学校に進学しました。人数の多さに圧倒されて畏縮してしまった同じ小学校の友達もいた中で、私はすぐに溶け込むことができたように思いますし、それは高校で市外、大学で県外に出たときも同様で、自分は新たな環境に飛び込んでも順応性が高い方なんだろうなと思っています。

授業中は先生に手を挙げて指摘することもあり、それなりに活発な中学生だったと思います。部活はテニスを頑張りました。

基本、負けず嫌いな性格です。ただ、コツコツ型の努力ができるタイプではなく、夏休みの宿題も最後の方に溜めてしまうタイプです(苦笑)。定期テストなどはいつも一夜漬けでしたが、猛烈な一夜空けをしていました(笑)。勝負ごとには燃えてしまいます。今もこの性格は変わらないと思います。

好きな教科は社会、特に歴史ですね。小学生の頃には戦国時代の武将の伝記を読むのが好きだったり、NHKの大河ドラマもよく見ていました。歴史を知ると、その時代のトップによって、一般の人たちが良い状況にも悪い状況にもなっていきます。時代を築いてきた為政者が、どのように人を動かし、どのように判断していったのかということに興味を持っていました。そして、現代においては、その立場は政治家であるので、子供の頃から関心が強かったです。

中学生の時から政治に興味があったということですか?

そうですね。そういえば、小学三年生くらいから国政選挙の開票日にはテレビにかぶりつきで選挙速報とか見ていました(笑)。

小、中学生の時に、歴史や戦争物の本を読むなどする中で、指導者によってその時代を良い方向にも悪い方向にもしていくんだということを強く感じていました。そして、自分が生きる今の時代では政治家がそのポジションなんだということも。

悪い方向に行かないようにする為にも、自分も政治に関わりたいとも思っていました。しかし、政治家二世でもない自分には現実的には無理だろうとも思っていました。特に、田舎では難しいと。

高校生活はどうでしたか?

宮崎市内の私立高校に特待生として進学することができ、親元を離れ寮生活をしました。
入寮時、前に住んでいた生徒がしている掃除のレベルなので、自分が入る部屋があまり綺麗ではなかったのですが、両親が一生懸命掃除をしてくれました。「ここまで綺麗にしてくれたんだ」と両親の深い愛を改めて感じました。高校生活は本当に充実していて、ほとんど帰省することなく楽しく過ごすことができました。

ここまでお話しをお聞きしていると大きな挫折とか暗い時代がなかったように感じますが、、、、。実際はございましたか?

大学受験に失敗したことですね。浪人はそんなにどうってことないかもしれませんが、私には大きな転機でした。

高校の自分のクラスで浪人したのは自分だけで、福岡の予備校に行ったんですが、知ってる人もいなく、自分を見つめなおす一年になりました。

田舎ではトップクラスの成績でも、予備校で勉強をするうちに、世の中には勉強ができる人がたくさんいて、自分は凡人であることを痛感させられ、学力だけを武器にするのでなく人間力を磨かねば、世の中ではやっていけないと考えるようになりました。この時代がなかったら、勘違いをしていたと思います(笑)。

大学に進学されてからはどうでしたか?

まず、大学合格した時に合格祝いを3回くらいしてもらったんですよ。家族や親戚以外に、地域の方にも。田舎ならではですが、ものすごく地域の方に可愛がってもらって育ったんだと改めて思いました。

そのとき、小さい頃から可愛がってくれた地域のおじちゃんが「恭平、おまえはこれからいい大学に入って他所に行ってしまうけど、自分を磨いて大きくなって地域のためにちゃんと帰ってきて欲しい!」と言われました。そのおじちゃんは、地域の活動を熱心される方でしたので、私の中にずしりと響きました。市長を志したのはこの言葉が大きかったです。

市長選挙の時には、そのときの地域の方が大活躍してくださり、地域が一つにまとまりましたね。「恭平が県庁を辞めてまでして選挙にでるんだったら応援しないわけにはいかんやろ」って。本当に本当に、ものすごくありがたかったです。

小さい頃から、地域のために汗水たらしながら様々な地域活動をされている大人たちの背中を見て育ったことは、私の中で大きな財産です。

ただ実際は、大学時代、高校2年生から理系だったので、事務系で政策をどんどん立案するような行政の仕事は無理なのかなと諦めかけた時期もあるんですよ。
でも、諦めかけた気持ちをまた振り戻してくれたのが、大学時代の児童養護施設でのボランティア活動でした。ドラマやニュースでしか見たことのなかった世界を目の当たりにして、衝撃を受けました。

親の借金や虐待を受けたなどの理由で親と暮らせない子供たちと一緒に遊んだり勉強を教えたり、進路の相談を受けたりするんですが、厳しい背景にある子供たち一人ひとりと向き合うことが、自分にとって大きな経験でした。そして、子ども達の笑顔などに触れることにやりがいを感じていくようになり、最初は週1回だったボランティア活動が、気付いたら週3回、4回と増えていきました。

子ども一人ひとりと向き合うことの大切さを肌身で感じるようになって、将来の職業は児童養護施設の職員になりたいと思うようになりました。しかし、自分には引き出しがまだまだ少なく、社会に出た時に必要なことを子どもたちに教えられるよう経験をもっと積むために、しばらく実社会で働いてからの方がいいのではと考えました。

そんな中、当時ボランティアに通っていた施設の先生から、「現場での限界もある。職員の配置基準など、現場の環境を良くできるのは政治や行政であり、現場でボランティアをしてくれた崎田くんだからこそ、自分たちではできないことをやってもらう道もあるのではないか」と言っていただき、最終的にどの仕事を目指すかはまだ分からないけれど、まずは行政で働いてみようと考えるようになりました。

理系の学生でしたので、卒業研究など非常に大変でした。実験をしながら、公務員試験のための六法全書を片手に法律の勉強も頑張りました。
研究室の先生には「絶対に無理だ」と言われましたが、ナニクソー!!って。公務員試験は大学受験より勉強しました。

この児童養護施設での経験は、本当に私にとって大きなものとなりました。

今、市長になられてその当時の生徒さんたちからは自慢のお兄さんになっているのでは?

そうだと嬉しいです。

今でも当時の子どもと連絡を取っていて、結婚や出産の報告がきたり、家族で会いに行ったり交流が続いています。その当時の出来事だったり、苦労したことなどが蘇りますね。

浪人時代の挫折や大学時代の施設での経験が今につながっています。

県庁職員から政治家への道のりはどんなものだったんでしょうか?

県庁職員として働き、県庁での行政の仕事を極めようかと思った時期もありました。実際、県庁での仕事は幅広くやりがいがあり、また、たくさんの経験を積ませていただきました。

しかし、やはり、政治でなければ変えられないこともあると行政で働いたからこそ感じることもあり、また、同世代で政治家になっている方々との交流・勉強会などを重ねる中で、政治の道に行きたいという思いが大きくなっていきました。

また、県庁に入るまでは児童福祉への思いのみが強かったのですが、地域振興課などの県全体の地域政策に関わらせていただいて、力強い地域があってこそ、困っている子どもや福祉分野に手を差し伸べることができるのだということも思うようになりました。

でも、県庁職員になったからといって政治家になれるほど甘いものではないことも自覚してましたし、ましてや知名度やお金も地盤もありませんので、遠い夢だけで終わるかもしれないと内心思っている時期も長かったです。

とにかく、まずは県庁職員として、政策立案などの力を高めていきたいと思っていました。いつかチャンスは来るかもしれないし、ということで。

県庁で働きながら、プライベートで色々な勉強会を主催したり、参加するなどしていたのですが、そんな中、同じ志で同じように普通のサラリーマン家庭に育った武井俊輔氏と出会いました。武井さんに初めて会った時から一発で仲良くなりまして、それ以来、衆議院議員となられた今でも兄弟分のような関係が続いています。

そして、当時、武井さんが厳しい選挙に勝って県議、衆議院議員へと大きくなっていくのを間近で見ていて、大きな刺激を受けました。

また、県庁職員時代には、厚生労働省への派遣となりまして、東京に行き、入庁前から希望していた福祉分野の仕事を担当しました。その時、大学時代にボランティアで通っていた施設の理事長と再会したんですよ。色々なことが繋がって今があるんだと実感しました。

その後、意を決して、県庁を退職。初めての選挙にも関わらず、市長選挙への挑戦ということで、厳しい道を自ら選びました。

マスコミも直前まで泡沫候補扱いであったところもあるくらい、厳しい選挙だったんですが、生まれ育った田舎の地域の皆さんから県外にお嫁に行った中学の同級生などなど、これまで私がお世話になったありとあらゆる人が応援してくれました。

また、うちの両親は、当初、県庁を辞めることも、ましてや選挙に出ることも大反対でした。特に、父が大反対で、なかなか納得してくれませんでした。

しかし、私の意志が変わらないことを知り、両親がこれまでお付き合いしてきたありとあらゆる人たちにお願いをしてくれ、毎日朝早くから遅くまで事務所の運営をしてくれました。両親には、心から感謝をしています。

小さい頃からですが、人には本当に恵まれていると思います。そして、妻にも(笑)。
妻は本当に気持ちが大きい人で、母に似てるように思います。妻のご両親も同じく大きい方々です。

妻とは学生時代に知り合ったのですが、その時から政治家になる夢を語っていたので、選挙に出る時も全く動じず、今も裏で私を支えてくれています。当時、生まれたばかりの長男を抱えて、夢を追いかけさせてくれた妻には一生感謝します。

今、男の子が弱い、親も英才教育がいいと思って目の前の石ころを取り除いてどうぞ歩きなさい、みたいな親御さんが多くて、企業の人事の方も採用に困ってるとお聞きするんですが、崎田市長は、そんな親御さんたちに子育てのアドバイスやメッセージがあれば是非、お願いします。

そうですね。私の母も父も英才教育とは本当に真逆で、高校や大学進学時も有名学校に興味はなく、とりあえず公立に進学してほしいといった感じでした。決して教育熱心ではありませんでしたが、大事にされている、愛情を持って育ててくれたという感覚はすごくあります。

自己肯定感はそのようなところがあって生まれてくると思いますし、孤独な市長(組織のトップ)という仕事をする中で、両親や祖母、地域の中で大事に育ててもらったというのは自分の原動力となっていますね。そういうのでいいんじゃないでしょうか。

小さい頃は、たまの休みの日に母が焼いてくれたホットケーキが嬉しくて嬉しくて。「勉強しなさい」と母は一度も言いませんでしたが、静かに見守ってくれました。
今も、息子が市長になったからといって、特に母は偉ぶることもなく、何も変わっていません。むしろ、世の中的に評価されることより、ちゃんと家族を食べさせることができて、健康であれば全部良し、という感じです(笑)。

あと、私自身が思うのは、日南のような田舎で小学生や中学生時代に周りに塾や予備校が無くても、大学受験にあたって大きく困った感覚はありません。

また、社会に出て必要とされる能力は、塾通いとは違うところから学ばなければならないと思います。
学力も必要だと思いますが、あふれ返るほどの情報化社会で、ものすごいスピードで時代が変化する中、本質をつかむ力と、周りの人たちを巻き込み、チームで物事を組み立て、動かしていく経験を積むことが大事ではないかと思っています。

 


松前後記:

今回、崎田市長のお話を伺って改めて、ご両親の深い愛、祖母の大きな愛、大自然の田舎での子供時代、地域の方の温かい想い、また浪人時代の挫折と大学時代の施設での経験一つひとつが、市長になるのは必然的だった出来事に感じました。

実際に崎田市長が市長に就任して3年が経ち、日南市の皆さんは若きリーダーの心(真)の政治と行動力を頼りにしています。若者たちの雇用や企業を日南市に誘致し、地元商店街の活性化にも力をいれています。このことによって市全体が若返り、市民の中からも将来の若きリーダーの芽が育っています。

そして、海や自然多い土地に恵まれた日南市は、海外の大型クルーズ船の入港や野球やサッカーなどのプロスポーツチームのキャンプ地として外との交流も盛んですが、ただ盛んなだけで終わらせないのが崎田流。(広島東洋カープによる1億円寄付など)日南市への経済効果は非常に大きく市民も期待していることの一つです。

崎田市長の週末を使った上京での動きもまた、周りの人たちに「一緒に何かをしたい!!」と思わせてしまうのは彼の行動力と熱き想いを日南市から国政に叫ぶのではなく、上京し自分の足をつかって訴える姿に老若男女を問わず、いつしか応援者になる所以だろう。崎田市長の小回りとエッジがきいた透明的な政策は近い将来、地方創生に「日本の前例は日南市が創る!」を実現していくはずだ。

最近では二児の父親として「夕方からパパ行動運動」を宣言し、家庭人としても頼りになる旦那さん。市長だからといって奢ることなく、いつも故郷とそこに生きている人たちのために全力で走り続けている彼もまジェネリーノキングとしてこれから益々、目がはなせない。

sakita_04

聞き手:松前博恵 ライター:成瀬ヒロ カメラマン:諸井京子 協力:日南市役所