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第11回 ジェネリーノキング インタビュー

片道2時間20分、通勤時間を学びの場に。
14年半のサラリーマン生活を経てスローフードの世界に飛び込んだ、
株式会社セオリー、原誠志社長の元気の出るインタビュー!

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株式会社セオリー
代表取締役 原 誠志(はらせいし)氏
1967年東京生まれ。中央大学法学部卒。東武鉄道株式会社入社。駅員、車掌、本社管理部門、東武動物公園勤務などを経て、2004年株式会社セオリー設立。企業理念は「日本酒文化、日本食文化、日本地域文化を後世に伝える方舟になる」こと。スローフードと日本酒がコンセプトの和食店「方舟」など飲食店、温泉旅館やリゾートホテルなど宿泊施設、酒乃花本舗や能登の道の駅などの物販店舗など約20施設を展開するほか、各商業施設にて北陸物産展などの催事物販を随時開催。県や市町村など地方行政ともタイアップして、地方の特産品や工芸品を首都圏に広める活動など、地方創生事業も積極的に推進。趣味は登山で月に一度は山に向かう。夢は現在小学校2年生の息子と二人で日本百名山制覇。

継続は力なり。
諦めずに続けていけば、どんなことでも最後は成功になる。
そして何をするにも遅すぎるということはない。

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いわゆる普通の家庭で普通の子ども。
大学卒業後は普通に安定を求めて、転勤のない私鉄会社へ入社。

松前)原社長はどのようなお子さんだったのですか?

原)小さい頃はスポーツも勉強も中の上くらいで、いたって普通の子どもでした。小学校から中学にかけても野球、サッカー、テニス、英会話、そろばん、エレクトーン、スイミングなど様々なことに興味は示すもののあまり長続きせず、一芸に秀でることはなかったです(笑)。家庭も典型的ないわゆる中流家庭。両親と弟の四人家族で、共働きの両親がローンを組んで購入した郊外の庭付き一戸建てで暮らすという、まさに高度成長期の超平均的な家庭でした。

松前)大学卒業後は東武鉄道に入社されたのですね?

原)京王電鉄で働いていた父の影響でした。就職活動時はバブル景気で金融機関の人気が高かったのですが、自分は堅実な性格だったので安定している鉄道会社がよいと思いました。鉄道会社のようなインフラ産業はまず潰れませんし、給料も福利厚生も充実しており、かつ採用人数が少ないので入社すれば幹部候補生として昇進も保証されます。更にJRと違い私鉄はエリアビジネスなので転勤もほとんどありません。もともと郊外とはいえ東京生まれの東京育ちということもあり、あまりなじみのない地域には行きたくないと思っていましたので、転勤がない私鉄会社を選びました。

何でもこなしてしまう父。尊敬する人生の先輩。

松前)お父様はどのような方ですか?

原)父は一言でいうと何でもできる人です。炊事、洗濯、掃除はお手のもの。登山、ゴルフ、野球、テニスなどスポーツは何でもできます。更には尺八や三味線、社交ダンス、囲碁も嗜むなど非常に多趣味な人でした。更には犬のブリーダーのようなことにまで手を出したかと思えば、品評会に参加して優勝までしてしまう。物置のような大型犬の小屋まで日曜大工で作っちゃったりして、もう何でも自分でやってしまう人でした。

松前)出来るお父様ですね。

原)父は高卒でしたが鉄道部門の部長にまでなった人でした。僕も会社に入ってから昇進の仕組みがわかりましたが、鉄道会社は入社時点でキャリア組とノンキャリア組に明確に区別されて、昇進で大きな差がつけられます。そんなハンデを乗り越えて昇進し、後にも先にもその会社で鉄道部門の部長になったのは父だけというくらい、仕事も出来る人でした。でもそこまでだったんですよね。キャリア組が更に役員など上へ上へと出世していくのを父はある意味悔しい思いで見ていたと思います。
ですから僕が大学卒業後に私鉄会社に入ろうとしていた時には、「鉄道会社はそんなに競争が激しいわけでもないし厳しいノルマがあるわけでもない。ただ対人関係というのはすごく重要だ。お前は性格も穏やかだし人とうまく折り合いをつけることができる。きっと周りからかわいがられて昇進するだろう」と言って賛成してくれました。

松前)お父様は人生の良き先輩でもあるのですね。お父様を尊敬していらっしゃることをすごく感じます。

原)そうですね。若い頃はそれほどでもありませんでしたが、歳をとってくればくるほど、父と一緒に行動したいという思いが強くなりました。最近は一緒に山に登ったり、渓流釣りに行ったりということをよくします。昨年の夏も石川県の白山に家族で登りましたが、78歳になる父もちゃんと孫の面倒をみながら登ってくれました。現在は弊社の宿泊施設でも色々と手伝ってもらっています。やはりそんな父から影響を受けて、僕も息子と二人でよく山に登るようになりました。

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父と母は水と油。父は信頼し母はいつも心配していた。

松前)お母様はどのような方ですか?

原)父が沈着冷静で何事においてもきっちりしているのに対して、母は感情豊かで大雑把な性格でしたね。まさに水と油です。ですから二人が対立すると、理詰めの父と感情の母ということで話し合いはいつも平行線でした。僕もその理詰めの性格を受け継いだので、正論を主張する父親に味方することが多かったですね。でも弟は平和主義者なので正しいとか正しくないとかは別にして、どちらにも付かない。いつも2対1対1棄権みたいな感じでした(笑)

松前)賑やかなご家庭のようですね(笑)

原)私鉄会社に就職する時も父が賛成してくれる一方で母は反対していました。父と母は社内結婚をしているのですが、京王線沿線に住んで、京王ストアや京王百貨店で買い物をして、住宅購入は京王不動産でというふうに何から何まで京王尽くしになっていく生活の中で、母はどこか窮屈な思いをしてきたようで、僕にはもっとローカルエリアに縛られないグローバルな企業に入って欲しかったみたいです。

松前)子どもがどのような道を選んだとしても、母親って心配が先に立ってしまうものなのかもしれませんね。父親が理解を示せばとにかくまず待ったをかけてしまうような。お母様の立ち位置がよくわかります。

東武動物公園への出向が転機に。
通勤片道2時間20分を無駄にしない。

松前)東武鉄道ではどのようなお仕事をされたのですか?

原)東武鉄道には14年半勤めました。駅員半年、車掌半年の現場研修を経た後、東武東上線の営業課に配属され、自動改札機の設置や広告宣伝、イベント業務など沿線サービスに関わる様々な仕事を3年ほど経験しました。その後は本社の関連事業室という、約200社ある東武グループの関連会社を管理する部門に異動になり、企業の決算や合併、清算など法的知識を活かす仕事に従事しました。ここで3、4年経ったところで辞令が下りまして東武動物公園へ出向することになったのですが、当時住んでいた横浜の綱島から電車でなんと片道2時間20分。転勤がないと思っていたら、まさに生かさず殺さずの微妙な場所に赴くことになったのです(笑)。
しかし実際に通ってみると出勤時間が早いので電車は空いているし、帰りも通勤ラッシュとは逆方向の電車で帰るので往復確実に座れてしまう。実は満員電車で都内へ通うよりずっと楽だったわけです。ただ一日24時間は変わりませんから、時間が経つのはやたら早くて。会社から帰ったらもう寝る時間、そして寝たらすぐにまた起きる時間(笑)

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松前)往復5時間近く!大変でしたね。

原)結局、東武動物公園には6年通いましたが、逆にこの長い通勤時間を無駄にしたくないと思ったことが人生の転機になりました。最初は何か勉強でもして資格を取ろうと考えましたが、色々と思案しているうちに起業に興味を抱くようになり、ノートパソコンを購入して自分の事業構想を打ち込んで具体化していったわけです。長い通勤時間があったからこそ、自分の妄想がこうしてどんどん膨らんで具体化していったのです。

現場で学んだ経営の面白さ。
いつかサービスの仕事をしようと思った。

原)出向先では、動物園のこともレジャー施設のことも何もわからないのに、本社からのキャリア組の出向ということで上位職を与えられ、経営に関する仕事をすることになりました。その頃は経営知識などなかったわけですが、そこでの仕事がまた面白かったんです。本社にいた時は役員会の資料作ったり、稟議書を書いたり、会議に出たりと、社内から一歩も出ない事務的な仕事が多かったのに対し、ここでは朝はまずゲートに立ってお客様に「いらっしゃいませ!」とご挨拶するところから始まります。新鮮でしたね。
入社当初には鉄道の駅の改札口で切符を切っていたこともありましたが、特に通勤時間帯のお客さんは皆しかめ面で不機嫌な顔をしています。そんな中でキセルとか見つけて「ちょっとお客さん」って声を掛けると逆切れされたりするわけです。でも動物園のゲートには皆がニコニコしてやって来ます。何かちょっと案内をしてあげるだけで、子どもたちが「おにいさん、ありがとう!」って言って喜んでくれるわけです。同じサービス業で同じ改札で同じ切符を切る仕事でも大きな違いだなと思いました(笑)

松前)やはり喜んでもらえるのは嬉しいですよね。

原)そういう経験を重ねていくうちに、サービス業で事業を起こしたいと考えるようになっていったのです。当時の東武動物公園は売上35億円くらいでしたが、ここで経営を学ばせてもらったことで「ああ、こうやれば売上35億円の会社経営ができるんだ。これなら自分にもできそうだ」とすっかり勘違いして起業に突き進んでしまいました(笑)
そして冷静に、スペシャリストではなくゼネラリストである自分に何ができるかを考えた時、一番リスクが低いと思ったのが飲食業でした。ちゃんとお店を構えて真面目にまっとうな商売をしていれば、大成功はしないまでも大失敗することもないだろうと。だから東武動物公園へ行ったがゆえに今の僕があるわけで、もしずっと本社にいたら起業なんて絶対に考えませんでした。その後一旦本社に帰社の辞令がおりたのですが、もう意志は固まっていたので、本社に戻って一年半後に退職しました。

松前)東武鉄道をお辞めになる時はご両親の反応はいかがでしたか?

原)やはり対照的でした(笑)
父は「自分は満足できる仕事をしてきたし評価もされてきた。でも、そんなサラリーマン人生の中でも、仕事が上手く行かなかったり上司との軋轢があったりして辞めたいと思ったことは何回かあった。でも辞める勇気がなかった。だけどお前はそこである意味勇気をもって辞める。それはお父さんが出来なかったことをお前はやれるということだ。お前が決めたのなら応援する」と言ってくれました。嬉しかったですね。でも母は案の定、大反対でした。そんなことさせるために大学に進学させたわけじゃないと(笑)

松前)お父様はとても大きな方ですね。お母様のお気持ちもよくわかります。心配ですものね。今までお会いした起業された方のほとんどは、お母さんに反対されたり泣かれたりしているようです。

父と母は宿泊施設のお手伝い。
新しい家族のカタチが作られていった。

原)僕の実家は八王子にありますが、実はそこの家には誰も住んでいません。母親は生まれ育った富山県に、父親は実家のある長野県に拠点を移し、たまに八王子の実家に戻ってくるという自由な生活を謳歌していました。誰も住まないのなら実家は売却してしまえばいいのにとついつい思ってしまいます(笑)。経営的な視点で見るととてももったいない住居費の使い方ですよね。

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松前)ご両親はそれぞれ自立して思い思いに過ごしていらっしゃるのですね。

原)以前はそうでしたが、実は弟が両親を会社に巻き込んでしまったのです。
弟とは創業以来一緒に仕事をしているのですが、僕があまり親に頼りたくない性格であるのに対し、弟は都合よく利用するタイプです(笑)。彼は北陸で運営している宿泊施設の責任者なのですが、繁忙期などは「シフトに穴が空いちゃったんだけど掃除に来てくれない?」とか言って安易に母親や父親に助けを求めるわけです。そうすると両親は頼られるのが嬉しくて、ついつい手伝いに来てしまうわけです。

松前)とても親孝行ですね(笑)
そして、これもひとつの家族の形ですよね。新しいと言いますか。いいですね!

原)正直言ってこの歳になってそこまで働かせなくてもいいのではないかと思わなくはないのですが、でも部屋の掃除や洗い物などの仕事を楽しそうにやっている両親を見ると、敢えて頼るのも実は親孝行かなと最近は思ってきました。でもゴールデンウイークとか夏休みとかあまり忙しすぎると「親を安月給でこき使って、、、」とついつい愚痴も出てきますが(笑)

諦めず続けていくこと。
たとえ今はレギュラーになれなくてもいつか花開く。
そして挑戦することに遅すぎるということはない。

松前)最後に、子どもを育てているお母さんたちに伝えたいことは?

原)お話ししたように僕は幼少の頃は飽きっぽくて何も続かず、これといった得意分野がない子どもでした。得意分野がないということは自信を持てる分野がないということ。今から思えば確かに自分に対しても自信を持てていなかった気がします。もしあの時、スポーツでも音楽でも勉強でも、何か一つでもずっと続けて秀でた得意分野が持てれば、それが一生の自信に繋がっていたことでしょう。それを省みて、ある時から継続することをとても重視するようになったのです。そして現在の座右の銘は「継続は力なり」(笑)。途中で諦めるからそこで失敗が確定するのであって、成功するまで諦めないで続けていけば、どんなことでも最後は成功になる。自分には二人の子どもがいますが、継続の大切さは口うるさく説いています。レギュラーになれないから止めて他のことをするとかではなく、レギュラーになれなくてもそれをずっと続けていくことで何かもっと大切なことをつかむことが出来ると。でも実際に二人の子どもにそんなことを言っても、煙たがられるだけですけどね(笑)

このセオリーは設立して11年が経ちますが、当時から基本的なコンセプトは一切変えていません。自分自身、経営が苦しい時、資金繰りが厳しい時もそこだけは曲げることはせずに、理念に忠実に経営を貫いてきました。それはまさに幼少の頃に何も続かなかった自身の体験を省みての行動なのです。続けることなくして自分に自信は持てない。そして自分に自信なくして成功はあり得ないという、継続の大切さを真に理解できるようになったからなのです。そう考えると何事も続かずに一芸に秀でなかった当時の経験は、実はこの歳になって花開いていると思うのです。

以前は、放任主義で自由にさせてくれた両親に対して、本当に勝手な言い分になってしまうのですが、もう少し強制的に何かさせられていれば、得意分野が出来てもっと自分に自信が持てたのではないかと思っていた時期もあったのです。しかし実際はその逆でした。過保護にされずに自分でやってそれを反省できたからこそ、本当に大切なことがわかったのです。だから今では、何でも自由にやらせることで気づきを与え、成長させてくれた両親に感謝しなければいけないと思っています。

最後に、僕が起業したのは37歳です。家庭もあり子どももいたことを考えると、常識的にはリスクをとって始める年齢ではありませんでした。しかし今は、当時のその決断をした勇気をとても評価しています。これは、父親を超えるものが何もなかった自分が唯一、父親に対して誇れる勇気なのです。何かを始める時に遅すぎるということは決してないのです。こうした僕の経験が、これを読んでいただいた方のなんらかの人生のヒントになってくれれば幸いです。

 


松前後記:
偶然にも、原社長の元いらした企業は、まだ海のものとも山のものでもないジェネリーノに、立ち上げで広告を頂いた、感謝してもしきれないくらい感謝の会社ですが、その企業に15年勤め独立されて、いま大成功された原社長の歴史は、大手企業から独立を考えている方にも、夢のキャリアだと感じます。
「贅沢はしない。経費はできるだけ削減して、儲けたらきちんと税金を納め国に還元する」と、真っ直ぐな目でおっしゃっていたのが印象的で、その誠実さで、何かあったときは、原さんに相談したい。と思わせる人格者です。

聞き手/松前博恵 (文:坂 真智子  写真:栗原美穂)